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指宿 菜の花 通信(No219) 田舎医者の流儀(194)・・・2022年

 12月18日小山田の農園は午前中からみぞれとなり、昼前には粉雪が舞った。寒さの中、小屋で暖房機の前を離れられない。プーチンの理不尽な攻撃で、発電装置を破壊され暖を取れないウクライナの人々に思いを馳せる。ウクライナの冬の厳しさが伝えられる、そこを狙って破壊を繰り返すロシア・プーチンの狂気に慄然とする。

 世界が2020年からのコロナ禍を克服できず呻吟しているとき、2022年2月24日、ロシアは突然ウクライナに侵攻を開始した。プーチンは「自分の目的は、威圧され民族虐殺に遭っている人たちを守るためだ、ウクライナの非軍事化と非ナチス化を実現するのだ」と言った。2014年ウクライナ東部へのロシア軍の侵攻時、ロサンゼルス・タイムズ紙から派遣された60代前半のロシア人ジャーナリスト、セルゲイ・ロイコは「この戦争は変わった戦争だな」と言った。「なぜならこの戦争には何の理由もないからだ。あげられる理由の数々はまったく架空のものだし、すべてがロシアのテレビが流した噓の上に成り立っている。人びとが殺し合う理由などどこにもない。まるで不条理劇だ」。その言葉はそのまま今回のロシア・プーチンの侵攻にも当てはまる。

 ウクライナでの犠牲が拡大する中で、「ウクライナはロシアと早く妥協すべきだ」とする論調が見られる。しかし、「ウクライナの人々はホロドモール、つまり1930年代の飢饉を思い出していた。ソヴィエトはウクライナが凶作に悩んだとき、スターリンの部下たちがやってきて穀物の最後の一粒まで取りあげ、結果的に数百万人を飢餓に追いやった(330万人から数百万人)。」

 「その後もソ連寄りのヤヌコーヴイチ政権が、警察、軍隊、『ベルクト』と呼ばれる特別機動隊だけでなく、犯罪者やフーリガンから募った『テイトゥーシキ』と呼ばれる金で雇ったごろつきどもを自由に使い、平穏な抗議する人々に対し無慈悲に催涙ガス、ゴム弾、閃光弾、そして水点下であってさえ高圧放水銃を使い弾圧した。活動家たちはどこかに消え失せてしまったが、ある者は戻り、ある者は戻らなかった。戻ってきた者たちは、しばしば不具にされ、たとえば耳の一部を失うなどあとに残る傷を負わされた。」

 「彼はユ—リー・ヴエルブイーツイクイ教授の遺体が森のなかで発見されたまさにそのときにリヴイウに戻った。マイダンで警察の放った閃光弾の破片が、ヴエルビツキの目に飛びこんだのだ。別の活動家が彼を病院に運んだが、両名ともそこから拉致され、森に連れこまれて暴行を受けた。翌日、殴られたあとで放置され、凍死したユーリー・ヴエルブイーツイクイ教授の遺体が発見された。ヴエルブイ—ツイクイ教授は過激派であったことなどなかった。50歳の地質学者で、地球の地殼変動を研究していた」。これがウクライナの現実であった。

 「プーチンは俺たちをかつてのソ連のようにしたいと願った。だが俺たちは、一つの巨大な牢獄のような、有刺鉄線が張り巡らされたソ連なんてまっぴらごめんだ。ソ連に戻るのはごめんだよ。俺は自由な国で育ったんだ。ドナルド・ダックやトムとジェリー、ビデオプレィヤーや車とかね。そういったもので育ったんだし、そいつらは俺の人生の一部だ。俺は奴隸みたいに、工場で朝から晚まで働きたくない。そんな単調な生活はまっぴらだ。そしてプーチンは俺たちをそんな人生に戻そうとしている。だが俺たちは、それとは反対に、民主主義のあるヨーロッパに魅かれている。ソ連で奴隸のように暮らしたくない。プーチンは俺たちがそれを望んでいないのを知って、力で抑え込もうとしている。だからこういう事態になったんだ。もしウクライナが負ければ、俺たちはソ連に戻されてしまう。奴らが俺たちの人生を吸い取り、あるかないかの報酬でむちゃくちゃに働かせ、手荒に扱うに決まっている。もし俺たちが勝てば、民主主義になるし、俺や子どもたちは未来を手に入れるだろう。それが俺の見立てだよ」。(ウクライナの夜より引用)。私はウクライナの人々のそういう思いに寄り添いたい。

 年末になり、コロナ患者が鹿児島でも2000人越えとなり、知事は8波の流行だと言った。22年は6波より始まり、現在8波に及んでいる。ワクチンの接種もあり重症化は抑えられているが、医療現場では感染者を休ませるため、医療体制の構築に苦慮している。個人的には5回のワクチン接種を受け幸いに感染を避けられている。それでも患者さんを診察するので濃厚接触者の指定を受けたりした。

 2021年1月より南日本新聞「論点」欄の執筆を求められ、12月まで10回記事を書いた。この10回分を小冊子にしようと、正月明けの1月より準備にかかった。6月初めには本が出来上がった。500部印刷し、循環器グループの先生方(約90名)、あとお付き合いのある方約300名計400名近くに郵送した。60名以上の方からやお手紙やメールを頂いた。過分な評価いただいたことに感謝している。また、家人の花写真が良く取れていると褒められていたので家人は嬉しそうであった。2018年6月に「田舎医者の流儀(自家出版)」を出したので2冊目の本になった。それなりにエネルギーのいる作業になるけれど、この時の編集人Aさん、Oさんのコンビが力を貸してくれたので今回も気にいった体裁のものが出来上がった。

 11月3日、叙勲を受けた。過分な章を戴いたが素直に喜んでお受けした。多くの方々からお祝い、メッセージを戴いたこれもまたありがたく頂戴した。鹿児島の心臓病患者さんが治療のために他県に赴かず、地元で治療出来るようにしたいと1992年3月現在の鹿児島医療センターに赴任した。優秀な後輩たちに恵まれ、30年かかったが達成されている。ただ出来るというだけではなく高い技術レベルで達成できている。皆で達成したその到達点に対して代表して「章」を戴いたと受けとめている。

 11月中旬、3年ぶりに札幌に行った。コロナで長く旅行が出来なかったが、久しぶりの旅となった。未だコロナが終息せず、少々の不安はあったが幸いに何事もなく旅を終えた。小学5年生の孫は家内より身長が伸びていた、この次会うときは私より大きくなっていそうだ。スキーが好きで早く雪が降らないかと待ち望んでいた。娘夫婦も東京から来てくれてささやかな叙勲のお祝いをしてもらった。

 来年は戦争が終結し、穏やかな年になる事を願う。

令和4年12月23日

国立病院機構指宿医療センター 総合内科
 中 村 一 彦