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指宿 菜の花 通信(No221) 田舎医者の流儀(196)・・・ラーゲリより愛をこめて

 「ラーゲリより愛をこめて」という映画を見に行った。原作は辺見ジュンさん、文春文庫である。本を読み映画も見てみようという気になった。シベリアで捕虜として死と隣り合せの日々を過ごしながらも、「生きる希望を捨ててはいけません。帰国の日は必ずやって来ます」と、家族を想い仲間を励まし、懸命に前を向いた男—山本幡男の壮絶な半生と、夫の無事を信じ11年間待ち続けた妻、捕虜となった仲間達との絆を描く実話に基づいた小説です。

 捕虜たちが連れていかれたのは、シベリアの果てにあるスベルドロフスクにある収容所—ロシア語でいうラーゲリだった。どこまでも広がる鬱蒼とした森の奥に、ウラル山脈が連なっている。日本とは遠く離れた場所にいるのだと嫌でも突き付けられるような光景だった。スベルドロフスクのラーゲリは小さく、まだできて間もないようだった。捕虜というよりただで使える労働力として扱おうとしているのは明らかだった。シベリアの奥地までわざわざ運んできたのは、開発のための労働力が必要だったからなのだろう。

 ラーゲリでの労働は、旧日本軍の将校の指揮の下で行われていた。軍隊秩序を維持した方が、ソ連側も支配しやすかったのだろう。日本人の中で扱いに差をつけることで、怒りや不満を逸らしたいという意図もあったのかもしれない。一日の食事は、朝配給される黒パン350グラム、力-シャと呼ばれる粥、砂糖小さじ一杯と決められていた。重労働を課せられているにも関わらず、たったそれだけの量で一日持たせなければいけないのだ。

 抑留から3年後、1948年9月、捕虜たちは釈放されるということで列車に乗せられた、やっと帰れるのだと全員が喜んだ。しかしその期待も空しく、列車が途中で止まり、山本をはじめ大多数の者が降ろされた。山本たちが連れていかれたのは、ハバロフスク収容所第21分所というラーゲリだった。このラーゲリは今までと比べ物にならないほど大規模で、広大な敷地には立派な監視塔立てられ、ラーゲリを囲む壁にはぐるりと有刺鉄線が張り巡らされていた。

 新入りの捕虜たちを集めて、中央の仮設舞台から見おろしているのは、ソ連兵ではなく、若い日本人の捕虜たち(アクチブと呼ばれた)だった。アクチブとは先頭に立って積極的に活動する者、活動分子のことだ。当初、捕虜にした日本兵を、ソ連は労働力と見なしていた。しかし、時が経ち、日本を共産主義化するためにも利用しようと考えるようになった。そのために、養成されたのがアクチブと呼ばれる者たちだった。「民主運働」の名のもとに、捕虜たちは共産主義を叩きこまれ、特に見込みがある者はさらに赤化教育を受け、指導的立場となった。

 アクチブは「我々はソ連に賛同する。ソ連は労働者が国家の基礎だ。共産主義こそが唯一無二の優れた思想である。自分の過ちを認め、自己批判しろ」と、首に反動と書いたプラカードを下げ、捕虜仲間をリンチまがいに責め立てた。

 7年たち日本の参議院議員、高良とみがソ連側に働きかけラーゲリを視察した。この後、捕虜たちが熱望していた家族に手紙を書くことがやっと許された。山本も家族に手紙を書き、帰国への一縷の望みを持つようになってきた。しかし、山本は喉の違和感が出てきて、耳から膿を出すようになり、激しい痛みにも襲われた。収容所の医者は中耳炎だと言ってまともに手当てもしてくれなかった。だんだん弱ってきていた。それでも過酷な作業を強いられた。

 このままでは山本は死んでしまうと仲間の一人がまともな診療を受けさせろと座り込み、ハンガーストライキを始めた。最初躊躇していた捕虜仲間はどんどん座り込みに加わりほとんどの者が参加した。収容所側も折れざるを得ず、山本を大きな病院に運んだ。しかし、山本はすぐ帰ってきた、喉頭のがんでもはや手の施しようがない状態だった。

 山本が死んでしまうと感じた仲間は山本に遺書を書かせようとした。山本はなんとしても帰るのだと奥さんと約束していたが叶いそうにないことを理解し、遺書を書き始めた。必ずそれを届けると約束した仲間は何とか隠そうとしたが、取り上げられてしまいそうだった。彼らは手分けしてその遺書を記憶して持ち帰ろうとした。山本はかねがね「書いたものは記憶に残っているだろう。記憶に残っていればそれでいいんだ。頭の中で考えたことは、誰にも奪えないからね」と言っていた。山本はついに力尽き、抑留9年目で帰らぬ人となった。

 ソ連に抑留された者たちを乗せる、最後の引き楊げ船がナホトカ港に着いたのは、終戦から11年が経っていた1956年冬のことだった。山本の奥さんモジミは舞鶴に迎えに行く準備をしていたが、そこに死亡の知らせが届いた。翌年、庭先に一人の男が訪ねてきた。山本の遺書、記憶したものを文書にして届けてくれた。他の3人も次々に遺書を持ってモジミを訪れた。

 抑留された人々が帰ってくるのに11年もかかった。政治・外交はもう少し努力出来なかったのか。北朝鮮に拉致された人たちが今も帰国が叶わない、同じ系列の話なのだろうか。捕虜を虐待し、人道的扱いなど期待できないロシア・ソ連の「伝統」は今もウクライナ侵略で続けられている。義なきやり方は長い意味でロシアの国力を削ぐことになろう、ロシア国民に早く気づいて欲しいと思う。

令和5年1月25日

国立病院機構指宿医療センター 総合内科
 中 村 一 彦