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指宿 菜の花 通信(No228) 田舎医者の流儀(203)・・・春の木市

 春の木市が始まった、鹿児島の恒例行事だが、その規模が段々小さくなってきて寂しい感じだ。それでも春の風物誌なので覗いてみた。一回りして青色の花の鮮やかなチアブルーを2株、紫の花弁に特徴のあるオダマキ2株を買って、小山田の農園で鉢植えにした。座って眺めていると豊かな気分になる。

 甲突川沿い、国道3号線沿いの桜も満開を過ぎ、散りだした。帰りのバスの車窓から見える桜を数えてみたら69本あった。大きな樹から小さいものまであるがそれなりに楽しめる。農園も春になりツツジが咲き始めた、ドウダンツツジはく白い小さなつぼ型の花を咲かせるが、今年は花芽が少ない。もっと華やかに咲いて欲しいけど・・・・・少し研究しなければ !!。野ばらも咲き始めた、モッコウバラも黄色い花を咲かせ始めた。城西の自宅近くのこのモッコウバラは満開になっているのに農園は寒いせいか10日から2週間程度開花が遅れている。

 3月末に鹿児島県知事と鹿児島労働局長から感謝状を戴いた。県の身体障碍者行政と労働省の労災認定の仕事にそれぞれ30年位関わって、この3月で辞任した。今年末には80歳になるのでそれまでには辞めたいと思っていたので、一区切りがついた。これで公の仕事は指宿医療センターの非常勤医師として週2日外来診療を行う事のみになった。大過なく役目を果たせたかなと安どしている。

 医者になって、鹿児島大学病院で研修・研究をして24年、出るべき時期になったと判断し、南九州中央病院(現鹿児島医療センター)を次の活動先とした。鹿児島の循環器疾患の患者さんが治療のため福岡、熊本などに出かけなくとも、地元で治療できるような体制を作りたいと願った。赴任当時はなんちゅう(南中)病院だと揶揄される、アクチビチイの低い病院であった。しかし、皆で‟改善”に取り組み、今や後輩たちの努力でレベルの高い臨床力を維持し、進化する病院に生まれ変わった。その変革に携われたのは嬉しい。

 この病院で管理職となり、院長も4年間させていただいた。医者としての活動を公的病院で全うできた。定年後研修医確保の仕事、国保審査会委員、県医師会常任理事、県臨床内科医会会長など公の仕事をさせていただいた。こうした仕事も75歳ごろまでに区切りを付けたいと思っていた。諸般の事情で辞められなかった役職もこの3月で全て終わりになった。これで名実ともに隠居の身となり、やっと「けじめ」が付けられたかと思っている。

 今後は農園で暮らし、四季折々を感じながら穏やかに暮らしたい。農園で暮らしているとすることは多い。次々と生える雑草取り、落ち葉に覆われる庭掃除、綺麗にしておかなくては気持ち良くないので掃除に追われている。植えた作物を収穫するのもまた楽しい。今はエンドウが収穫出来るようになった。

 後輩たちと時々会い飯食いなどしながら話を聞くのを楽しみにしている。やっている臨床力に較べれば論文が少ないと気になっていた。しかし、彼らがその気になり論文も少しずつ出るようになった。その方向性を支援していきたい。我々循環器グループのOB会は宮内会長はじめ役員の先生方が後輩たちへの支援体制作りに尽力している。そんな全体の力が鹿児島の循環器医療に貢献していくと思われる。我々循環器グループの様子は「鹿児島循環器黎明」でネットアップしているので覗いてみてください。そんなわけでまだまだ忙しい日々を過ごしている。

令和5年4月12日

国立病院機構指宿医療センター 総合内科
 中 村 一 彦