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指宿 菜の花 通信(No197) 田舎医者の流儀(172)・・・坊ノ岬灯台

 南日本新聞(4月9日)に坊ノ岬灯台の記事が出た。
「南さつま市坊津町坊の坊ノ岬灯台周辺で1日(4月)、県内の観光関係者ら約10人が卜レッキング体験をした。地元の街歩きガイドグループNPO法人坊津やまびこ会が、灯台を自由に利用できる航路標識団体に指定されたのを受け、観光活用の可能性を探るのが目的」

 「歩いて魅力を体感した。近くの海岸に駐車し、同NPOの案内で約1キロの山道をたどった。息が上がるような起伏が激しいコースにめげず、沿道から見えるリアス式海岸や自生する希少な植物に歓声を上げた。海抜約80メートルの灯台に到着すると、東シナ海や開聞岳を一望する絶景を堪能した。」
参加者からは「冒険心が強い海外観光客の需要に応えられそう」と感想が聞かれた。元県観光プロデューサーの古木圭介さん(79)は「歩いてしか来られないので達成感が違う。灯台を目指すトレッキングは観光コンテンツになる」と話したという。

 私は坊泊小学校の出身、遠足で坊ノ岬灯台に何度も行った。案内のように獣の道みたいな道を歩いていくと灯台にたどり着く。眼下に海が広がり景観である。坊は漁業の町で、カツオ船が何艘もいて、中学校を卒業すると同級生5名が漁船に乗り込んだ。夕方になると拡声器で「本日の漁況」についての放送がある。町の人はその放送を聞いて漁の状況を感じ取り、いつ頃帰るかもわかる。そんな街なので灯台を大事にする気持ちが強い。

 小学校5~6年生の頃、この灯台から片道1時間近くかけて毎日登校する同級生がいた。雨の日も風の日もあの山道を通学していた。こちらは遠足で行く程度でも結構きつかったのに、彼は毎日通学していた。大変だろうなと子供心にも思った。O君は小柄ではあったが勉学もよく出来、運動能力も高かった。都会から転校してきたと思われるので田舎者の私にはなんとなくまぶしい存在であった。なにしろ、この時分、私は靴下など履いたこともなく、はだしの事も多かった。お父さんが転勤になったのか、2年ぐらいで転校していった。田舎の小学校に都会的雰囲気を持った子が来て、強い印象に残した。そして今でも、あの灯台守の子はどうしているだろうかと思い出す。

 その坊ノ津も今や人口3千にも満たない過疎の町になった。私がいた中学校時分までは13000人いたが、南さつま市になった頃は5000人となり、その後も人口減は止まらない。私の実家も母が亡くなり、住む人を失い、台風などで危ないのでついに取り壊してしまった。お墓があるので年2回位は墓参りに帰っている。しかしそれも私の代でお終りになるだろう。

 

令和4年4月14日

国立病院機構指宿医療センター 総合内科
 中 村 一 彦