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指宿 菜の花 通信(No200) 田舎医者の流儀(175)・・・200号になりました

 菜の花通信が今回で200号になった。平成21年(2009年)3月に鹿児島医療センターを定年退官、4月より国立指宿病院(現指宿医療センター)に週3日非常勤医師として赴任、総合内科を担当するようになった。その年の10月30日、本通信1号を病院のホームページ(HP)に掲載、HPにいろどりを添えよう位の気持ちであった。

 私の赴任した4月より田中康博先生(現鹿児島医療センター院長)が院長になっていた。指宿病院は平成14年に24名いた医師が平成18年には14名に減り、平成19年度は10名程度になり、病院としてやっていけないという瀬戸際に追い詰められていた。当時の院長が涙ぐましい努力をしていましたが、全体の流れの中でいかんともしがたい状況にあった。指宿病院は地域の中核病院であり、これがダウンしてしまうと地域医療・地域社会が成り立たないことになる、私は前院長と同期であり、近くにいたので、その苦衷が分かっていた。

 平成18年秋、田中先生が所属していた鹿児島大学病院を出ることになり、その時の教授に「田中先生を指宿病院にどうですか」と話しました。教授は「えっ、指宿病院ですか。もっと彼にふさわしいポジションはないのですか」と言われた。もっともな話で、彼はその大きな内科教室で教授の次のポジションにいた。その人を当時、国立病院機構の中でも最も下位にランクされる大赤字病院、その診療部長にという話だから、普通では考えられない事だった。私は田中先生に「日本一の赤字病院を再建できるのは先生しかいない」とロ説いた。そして平成19年4月、教授も彼の「心意気」を是とし、消化器内科3名を加え、計4名で赴任することになり、それから2年後、平成21年4月、田中院長が誕生した。

 そんなわけで、私には定年後田中院長を応援する以外の選択肢はなかった。院長として力を発揮してもらうため、少しでも外来とかの診療を手伝おうと思った。総合内科医として、外来の患者さんをなんでも診るようにした。定年後もまだ多くの公の仕事をしていて、国保の審査委員、県医師会の常任理事、鹿児島大学経営委員、平成21年からは鹿児島県保健福祉部地域医療特別顧問として鹿児島県の初期研修医の確保の仕事も始めた。菜の花通信の多くはそこから出て来た話題を記事にし、月1回を目安に書いた、どういうわけか続けることが出来た。後輩や仕事仲間から「読んでいますよ、楽しみにしています」とリップサービスを受けると本気にしてしまい続いたのかも知れない。

 医者になって40年近くをほとんど循環器・心臓医者で過ごしてきた。総合内科外来には発熱、腹痛、頭痛など様々な訴えの患者さんが来院し、古びた頭を切り替えるのは難しく、冷や汗をかくこともあったが、何とか持ち堪えてきた。一方で総合内科を担当したお陰で、今までで診たことのない疾患にも遭遇した。マラリアの患者さんにはびっくりした。22歳の青年が「2週間前から1日1回40度以上の発熱がある」と受診した。この青年は1年以上東南アジア、インド、バングラデシユなどを旅行して10日ほど前に帰国、指宿に帰ってきた。病歴、生活歴から直感的、臨床的にマラリアと考え、鹿児島大学病院に連絡した。かつての同僚で血液内科の医師がマラリアと確定し、即刻入院となった。後日談がある。この症例が大学病院のカンファレンスにかかった時、教授が「マラリアと誰が最初に疑ったのだ」と言われたそうです。我々の世代はそのようなシチユエーションでは、いまだそんな疾患が頭に浮かんだ。その他、ご婦人の大きな卵巣腫瘍、冠攣縮性狭心症で通院中の患者さんにみられた手背の浮腫と関節痛を認めるRS3PE症候群等も経験した。専門医の助けを借りながら、今まで経験したことのない新しい疾患との出会いがあり、そんな経験が菜の花通信の格好の材料になった。

 70歳を過ぎたころから、公の仕事から身を引こうと考え始めた。平成30年(2018年)春に県内科医会会長を辞任し、殆どの公の仕事から身を引き、隠居を目指した。隠居には形が必要と考え、小山田に170坪の土地を求めた。2016年暮れに購入し、翌年から本格的に整備を始めた。農園、コケ庭、ゴルフの練習の出来る芝部分と3等分し、駐車場の小屋が残っていたので居住部分として、快適に暮らせるようにトイレ、冷暖房、冷蔵庫、台所などを作った。

 現在、週に2日は指宿に行って外来診療、週一はゴルフ、残りの4日は殆ど農園で過ごす。農園では草取りなどの作業、雨の日は小屋で本読み、ゴルフの素振りをする。少なくとも3つの事が出来る、飽きることはない。家人などはそんな生活がいつまで続くのかといぶかっていた。幸い、農園に野菜を植えたりしてくれる友人の徳さんや頼むと芝刈りに来てくれる庭師さん、シイタケの生える樹や花木を持ってきてくれるSさんなどに支えられこの生活は成り立っている。

 最近の「菜の花通信」はそんな生活の中での出来事を書くことが多くなった。

 「たのしみは 朝おきいでて 昨日まで 無かりし花の 咲ける見る時」
 「たのしみは 庭にうゑたる 春秋の 花のさかりに あへる時時」
 (橘曙覧)

 そうは言っても、コロナの大流行、プーチンの暴虐に関心を失ったわけではない。心痛めることも多い。齢78歳、80も近くなった、いつまでこんな生活が続けられるやら。新聞に「80歳の夫が精米所を始めた」という奥さんの投書が載っていた。80を過ぎて、新たにことを始めるには誰でも抵抗があるかもしれないが、今を大事にするこの方の生き方に共感し、学ばされている。

令和4年5月6日

国立病院機構指宿医療センター 総合内科
 中 村 一 彦