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指宿 菜の花 通信(No238) 田舎医者の流儀(213)・・・無敵の老後

最近、無敵の老後(世古浩爾著 大和書房)という本を読んだ。その本を抜粋で紹介する。

「テレビは健康番組をやっている。老人目当ての健康食品やサプリメントの通販も盛大にやっている。不安煽り番組であり、不安煽り産業である。わたしは興味津々で見る。売れなくなった芸能人を見るのもそぞろ哀れだが、いい収入になるようだ。しかし商品を勧める必死さがウソである。

テレビに出る医者はあまり信用できないが、最近は素人もいんちきの片棒をかついでいるから信用できない。素人といっても、テレビに出ている者は、たぶん芸能事務所かどこかに登録している者たちなのだろう。素朴を装っているが、油断もスキもあったものじゃないのだ。」

 『わたしは一般的にいって、集団よりもひとりでいることが好きである。しかし気心の知れた集団まで忌避することはない。世間的価値に首までずぶずぶに浸かっている気持ちの悪い集団がいやなだけだ。わたしは完全にひとりではないし、ひとりの友だちもいないわけではない。しかし会うことが愉しくないような友だちは、思い切って意図的につきあいをやめるようにしてきた。それはわたしの狭量のせいかもしれない。しかしどう頑張ってみても、清濁併せ呑むことができない性格だとわかった以上、それはしかたのないことである。だから「ひとりであること」も「友だちが少ないこと」もあまり賛美はしない。』

 『世の中の楽しさには、ディズニーランド的な「楽しさ」と、読書のような「愉しさ」とがある、とわたしは考える。前者は動的で集団的で一時的、いわばバーベキュー的な楽しさである。あるいは見出し的にいえば、強烈なドーパミン的、エンドルフィン的楽しさだといっていい。みんなでわいわいがやがや。イエーィとかいって。後者は静的で単独的で永続的、いわば読書的を愉しさである(読書の他に考えつかなかった)。こちらは穏やかなセロトニン的、オキシトシン的愉しさである。映画を見る、音楽を聴く、絵を見る、昆虫採集をする、など。じわりと愉しい』『もうこの歳になると、わたしはいまでは圧倒的に「愉しさ」を求める。実際にもそうだ」もちろん「楽しさ」も好きである。が、あんまり「楽しい」とか「楽しむ」とかはいいたくない。「人生を楽しみたい」などとはロが裂けてもいいたくない。』

 「昨年の安倍晋三前首相暗殺事件をきっかけに、旧統一教会の布教のしかたが大問題になった。信徒を洗脳し、多額の寄付をさせることである。あるひとつの観念に支配されてしまった人間には、なにをいっても無駄である。しかし、夢の中でもいいから、神様が現れたというのならいざ知らず、実際に信者の前に教祖として出てくるのは、ただのおやじやおばさんじゃないか。幹部はポマードべったりのおっさんじゃないか。ある国の宗教指導者は白髪をのばしたただの老人じゃないか。なぜそんなやつのいうことを聞くのか。」

『宮本武蔵は「我、神仏を尊びて、神仏を頼らず」といったが、わたしもそんなところである。しかし人が願い事をし、祈ることを、わたしはばかにはしない。』

「現今、わたしがほんとうに気に食わないのは、ウクライナに侵略しておきながら盗人猛々しいプーチンと、ウイグル、チベット、香港を弾圧していながら、のほほんとした顔をしている習近平と、ミヤンマ—の実権を握って一族郎党で国を食い物にしているミン.アウン.フラインの世界三バカ老人である。」

 私の「独善」に基づく本の紹介でした。

令和5年9月6日

国立病院機構指宿医療センター 総合内科
 中 村 一 彦