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指宿 菜の花 通信(No242) 田舎医者の流儀(217)・・・循環器グループOB会

 日曜日朝、親指大のシイタケが顔を出した。その3日後には手拳大の大きさに成長した、その成長の早さに驚きながら、収穫した。先週も2個収穫した、時期なので今後も期待できるかな。植物は他から栄養をもらうのではなく、自ら栄養を作り、成長していく。その意味では我々を含めた動物が植物や他の動物を栄養源にして成長・生きているのに比べれば自立していると言える。しかし、植物も動物の助けを必要とする。昆虫が受粉を助け実がなり、種が出来、命を続けていく。

 11月初めの土曜日、我々旧第二内科・循環器グループOB会があった。コロナ禍で3年ほど開催出来なかったが、今年は現役の先生方も参加し30名近くの会合になった。グループ1期生のF先生や2期生のK先生は遥々大分から参加してくれた。長くこの会に顔を見せなかったA先生も来てくれ、嬉しかった。

 我々のグループは1974年(昭和49年)春、第二内科循環器グループとして私と畏友宮原健吉の二人で始めた。以後多くの先生方がこのグループに属し、現在まで100名近くに及んでいる。未だ殆どの方が医師として活動しているので、鹿児島の循環器病医療の中で大きな役割を果たしていると言える。当時、私は30歳、医者になって5年目、久留米大学で2年間循環器病の研修をして来たとは言え、全くの若年医師であった。研究実績もなし、勿論博士号もなしそんなチーフのもとにどういうわけか優秀な人材が次々に入ってきた。未だもってそのわけが判らない。循環器病の臨床・研究が発展する時代であったので、それが大きな背景にあったとしか思い当たらない。

 大学で24年間暮らしたが、3代目教授との関連もあり私も次のステップを踏む時期になっていた。当時はまだ循環器病の治療のために小倉や熊本に患者さんを送らざるを得なかった。地元で全ての循環器病治療を受けられる体制作りが求められていた。そこで循環器外科のある当時の国立南九州中央病院にその場を求めた。1992年(平成4年)3月、橘、薗田先生と3人で赴任した。いろいろあったけど、我々の目的は地元で全ての循環器病治療が完結出来るようになりたいという事であったので何も苦になる事はなかった。

 それから30年今や循環器病治療は心臓移植など特殊なものを除き地元で出来るようになった。アブレーション治療(現在3800例)、多数のペースメーカー植え込み治療、TAVI(経皮的大動脈置換術、現在640例)、僧帽弁治療(Mittra Clip現在29例)、それに従来から進めている経皮的冠動脈形成術などの高度の手技を厳しい修練のもとに獲得し、安定的成績を確保している。どこにも負けないレベルで患者さんに提供できていることが嬉しい。

 更に救急医療への適切な対応、心不全治療への新たな対応など充実した高度の循環器病治療が提供できていることを誇らしく思う。今後も更なる上を目指して「謙虚」に頑張っていきたい。やっている臨床に較べれば、臨床研究論文の発表が少ないと懸念していたが、今年は症例報告だが4編の論文が発表された。臨床研究を進めるためのデータべースの作成も軌道に乗りつつある。11月初めにはAHA (アメリカ心臓病学会)発表のため東先生らが出発した、これもまた喜ばしいことだ。OB会はこうした活動を積極的に後押ししている。現役とOBが一体となり鹿児島の循環器病診療レベルを押し上げていきたいと思っている。

令和5年11月17日

国立病院機構指宿医療センター 総合内科
 中 村 一 彦